Prologue
Puerto Rico Underground Music 1990’s
レゲトンは1990年代にプエルトリコで生まれた、まだ新しい音楽のスタイルである。ダンスホール・レゲエとHIP HOP、そしてサルサ、ボンバ、プレーナといったプエルトリコの伝統音楽の影響を取り入れることで独特の”リディム”が生まれた。これは”Dem Bow”と呼ばれ、レゲトンのスタイルを決定づける1つの要素となった。実はレゲトンの起源に関しては諸説ある。よくある話だが、DJ Playero &ダディーヤンキー組とDJ Nelson組で「俺が元祖だ」と互いに領有権を主張しているが、筆者はDJ Playero &ダディーヤンキー組が明らかに「早い」と思う。音源は嘘をつかない。まー、この話はレゲトンの豆知識の部類で、本質は”Dem Bow”だ。”Dem Bow”は元々は1990年にジャマイカのレゲエ・シンガー、シャバ・ランクスがヒットさせたダンスホールナンバーだ。”Dem Bow”には反植民地主義、反同性愛の意味が込められている。これがパナマやプエルトリコなどカリブ海の国々でも大流行し、”リディム”だけを拝借してスペイン語のラップ、フロウを乗せることで様々なバリエーションが生まれ、レゲトンの原型が完成した。初期レゲトンの過剰なマッチョ崇拝、女性を徹底的に性的対象として扱うというのもそもそもここから来ている。半乳半ケツ放り出したネーチャンのレゲトン・ダンスは反同性愛の裏返しの行為だったわけだ。同時にスペイン語のリリックで反植民地主義を歌い、プエルトリコ(アメリカ領有)人ではなく、植民地化される前の自らのルーツである”ボリクア”人であるとの意識を先鋭化させていく。レゲトンがプエルトリコで爆発的に広がった理由もこの民族意識を抜きにしては語れないだろう。レゲトンがボリクア人のアイディンティティに火をつけた。wikiを引用すると”1991年にプエルトリコのサンファンのクラブで生まれた若いジャンルです。非公式のネットワークや非公式の会場でのパフォーマンスを通じて、「アンダーグラウンド」ミュージックとして知られるようになりました。”とある。この頃はまだ”レゲトン”ではなく”アンダーグラウンド”という呼称だったのだ。初期のレゲトンはストリートで売られるカセットテープで徐々に若者に広がっていき、当時のプエルトリコ政府はレゲトンを「反社会的」であるとして、この種のカセットの発売を禁止し、押収したという。そして1990年代が進むにつれ、ドラムマシーンやデジタル機材の導入によって”アンダーグラウンド”は洗練され、その音楽の個性が認知され、”レゲトン”は新しい音楽のジャンルとして確立していく。これから自分なりに選んだレゲトン・オールドスクール・アルバム10枚を紹介していこうと思う。
※ごめんなさい。リアルタイムで経験してないのと、資料が英文のものばかりで間違いもあると思います。自分もまだまだ勉強中なので、間違い等ありましたらご指摘ください。