tomoko_hojo

TOMOKO HOJO + RAHEL KRAFT

Shinonome 東雲

北條知子[日本]とラヘル・クラフト[スイス]

もう、春ですね。何もしなくても、季節は移り変わる。今年の春は「あれから10年」の春だった。10年前のあの日、私は自宅にいて大きな揺れで目を覚ました(寝てました)。このままやり過ごせば揺れもおさまるだろうと思っていたが、今まで経験したことのない大きな揺れは更に強くなり、棚の上のレコードやら何やらが落ち、「これはヤバい!」となって部屋の隅にとりあえず避難した。揺れがようやく止まったところで、速攻で着替え自転車で子供達が通う小学校へ向かった。学校前の通りには集団下校の学童たちが列をなして帰宅するところだった。当時(今もかな?)、北区一の児童数の小学校だったので、なかなか子供達を見つけることができなかった。すると娘の担任の先生が列から離れてフラフラとこっちに歩いてくるではないか?、「先生、◯◯の父親です! 子供はどこにいますか?」と問うたが返事がない。改めて先生の顔を見ると明らかに目の焦点が合っていなく、「茫然自失」を絵に描いたような状態。あんなに「茫然自失」な人を見たのは後にも先にもこの時だけだ。そして、先生はそのまま児童の列から離れ、フラフラと歩きながら一人で違う方向へ行ってしまった(先生はその後も休職)。そのやりとりを見ていたシルバーボラティアの人が「学童! 学童!」と叫びながら教えてくれたので、今度は学童保育所へ急行した。学童保育所は12階建ての都営住宅の一階にあるのだが、私が到着した時、学童たちは園庭に避難していた。娘は直ぐに発見できた。泣きじゃくり「マグニチュード7.9が〜」と言いながら保母さんにしがみ付いていたからだ。この緊急事態にあって小数点以下まで把握している娘に保母さんは苦笑し、私は「この子は将来大物になるな」と思った。大きな余震に怯えつつも子供二人と帰宅し、テレビをつけた。そこには黒く巨大な津波が田園を飲み込む瞬間が生中継されていた。「この世の終わり」は若い頃夢見ていたようにロマンティックでもドラマティックでもなく、ただただ凡庸さを伴ったグロテスクな光景だった。あれから10年、子供達は10年分成長し、私は10年分老いた。そして今、世界はパンデミックに覆われている。もう何があっても驚かないだろう、戦争も。驚くのは宇宙人発見くらいかなぁー。凡庸さを伴ったグロテスクな現実は進行中だ。抗うことは祈る行為に似ている。

そんで、今回紹介したいアルバムはTOMOKO HOJO + RAHEL KRAFTによる”Shinonome 東雲”。実は一年前にリリースされたアルバムなのだが、改めて聴き返してみたら、とんでもない傑作。初聴で気づけなかった自分に反省を促したい。フィールドレコーディングに二人のASMRなポエットリーディング、そして時折入る浮遊するようなスキャット。当たり前の日常の尊さと脆さを教えてくれる、淡々としていながら凛とした強度を持つ作品。作品中に枕草子から「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際」が引用されている。千年前から普遍の自然の営み。千年分テクノロジーは進化したが、人類はどうなんだろうか? デジタル配信のみのリリース。

UnknownOJI

from North Side Tokyo OJI, wiz LOVE.

2 thoughts on “TOMOKO HOJO + RAHEL KRAFT

  1. いつも更新楽しみにしてます!新しい記事から順に遡って聴いていて、いい出会いでいっぱいです。
    今年の311関連で、この記事が当時の記憶をもっとも思い起こさせてくれました。ありがとうございます。

  2. ありがとうございます!
    励みになります。
    またお暇な時間にでも覗きに来てください。
    We living in the future.

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