野村流名人 昔節
Mukashi-Bushi
新年元旦から訳あって沖縄に渡航していた。沖縄の国際通りのど真ん中に”丸高ミュージック”という創業60年近い沖縄音楽専門の楽器&CD屋さんがあるのだが、フラッと覗いてみた。CDは最近の島唄ばかりでそそくさと帰ろうかと思ったのだが、奥に数枚だけレコードがあるではないか。土産物がわりに沖縄民謡のオムニバスでも買っていくかと思っていたところ、店の奥からオバちやん、否、オネーサンが出てきて「こっちの方がいいから!」と強烈にオススメされたレコードがあった。「野村流名人 幸地亀千代 昔節 その三」というレコードだった。「なんか沖縄ぽくないタイトルだし、内ジャケの写真は紋付き袴の貫禄のあるオジサンだし、大丈夫かな?」と内心思っていたが「地元の人が勧めるんだから何か理由があるんだろう」というのと、金ピカの豪華なジャケットにも惹かれて半信半疑で買ってしまった。翌日、凍りついた東京の部屋に戻り、そのレコードに針を落としてみた。数秒後。。。完全にマインドワープ状態に飛ばされた。「こ、これは琉球のPandit Pranじゃん!」と思い調べたところ、1969年にはもうお亡くなりになっていて、Pandit Pranがインドの幸地亀千代だった訳である。深く瞑想的な歌声。ヴォイスドローンとも呼べる、スローなロングトーン。三線と琉球琴だけの必要最低限の楽箏。凄い、凄すぎる。なんでこんな素晴らしい音楽家が世界で認知されていないんだ?と義憤に駆られ、ネットで情報を漁ってみた。以下に列記します。
“明治29年 3月4日、北谷間切(マギリ)嘉手納村水釜(現在の嘉手納町)で生まれる。6歳の頃、勢理客宗徳から野村流の手ほどきを受け、瑞慶覧朝蒲・伊差川世瑞・高安朝常らに師事して琉球音楽を学ぶ。昭和24年7月師範免許を受け、野村流音楽協会の再建に尽力し副会長に就任。30年ハワイ支部・北米支部から招聘を受け音楽指導に出向。38年6月池宮喜輝の後を受けて野村流音楽協会の6代目会長に就任。41年琉球古典音楽連盟が結成され副会長に就任する。伊差川・世礼の「声楽譜付工工四」の扱いを実技をもって示し後進を指導。野村流の普及発展と音楽協会の地歩を固めるのに大きく貢献した。堂々たる体躯で美声に恵まれ高音にすぐれていた。昭和44年 9月25日 没。”
調べてみたら2012年に地元マルテルレコードから「野村流名人 幸地亀千代 昔節」というCDが三枚組でリリースされていた。全て盤起こしの音源とのことだが三時間たっぷりと幸地亀千代の琉球の海のような歌声を堪能できる。これは控えめに言っても世界遺産レベル。丸高ミュージックのオネーサン、ありがとう!! いっぺーにふぇーでーびる!